いい加減、テキトーなどと書いたので、努力しなくていいのかと勘違いされていないか心配です。
世の中には、全く努力しないでもスイスイと夢を実現して、幸せになっていく人がいます。
これは、傍から見るとそう見えているだけで、陰では凄まじい努力をしているのかも知れません。
本当に努力していない場合、2つのことが考えられます。
1つは、前世に積んだ徳の貯金が沢山あって、今世は使い放題の人生だということ。
羨ましいですね。
でもこの人は、前世に苦労して、世のため人のために尽くしてきたのです。
もう一つは、生き方が神様の意に適っているのです。
普通の人は、なかなか、そうはいきません。
私達は、「何事も一所懸命頑張れ、努力しろ。」、と幼い頃から刷り込まれてきたこともあり、頑張るのです。
疲れて休んだり、ぼうっと休日を過ごしたら、後ろめたさを感じてしまいます。
「○○しなければならない。」、「○○してはいけない。」 と、自らに掟を持ってしまっています。
掟は、「明るく、元気で、前向きで、発展的で進歩的、楽天的で積極的で、意欲に充ちた」 ものでしょうか。
掟は、神道にはありません。
頑張りすぎている人こそ、ぼうっとした一日を過ごし、テキトーに、いい加減にやって頂きたい。
では、努力しなくていいのか。
神様にお願いして、後は寝転んで待っているだけで願いが叶う、なんてことはありません。
どんなことも、行動しないことには、実現しませんから。
神様にお願いしたら、それを実現するための努力は、すべきです。
その真剣さを神様はご覧になり、実現を助けてくれる人・物・金を用意してくれます。
主に、人との出逢いです。
行動しないと、新しい出逢いはありません。
家で寝ていて、知らない人が「あなたの願いをキャッチしました。私が叶えてあげましょう。」 と訪問してきたら、怖いですよ。
どんな努力がいいのかというと、努力と感じない努力です。
好きなこと、楽しいこと。
他人が見たら、「よくあんなに頑張れるものだ。凄い努力家だ」 と。
ところが本人は、楽しくて楽しくて、寝食を忘れて没頭しているだけ。
夢中で遊んでいるのと同じ状態です。
いわゆる天職、天命を果たしている時です。
それが見付かっている人は、本当に幸せですね。